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JOURNAL

二代目社長の挑戦 ーー最大のピンチから世界初の製品開発へSTORIES

創業54年のテスコム電機。その2代目社長として、人との絆を何よりも大切にする社長が、熱い想いで数々の困難を切り抜けたいま、会社とは何かについて語ります。

温かな“人”と“感謝”に包まれた幼少期

▲右から、母、長男(10歳頃)、楠野(3歳頃)、次男(7歳頃)


楠野 「社長になるなんてまったく思ってもなかったですね。僕は三男でしたから」


楠野寿也が生を受けたのは、東京都大田区。サラリーマンの父(元テスコム電機株式会社 会長 楠野幹夫)と、内職に明け暮れる専業主婦の母にとって、3番目の男の子でした。
楠野は2,000gの未熟児だったため、母の胸に一度も抱かれることなく3カ月間保育器に入れられることになります。
そして、やっと3カ月が終わったとき、言い渡されたのは発育不良。医師の猛反対を押し切って、自宅で育てる決断を通してくれたのは、母でした。

楠野 「お医者様からは命の保障はない、と言われたそうです。それでも母は自分の手で育てたいと、相当な覚悟で病院から引き取って僕を育ててくれました。
今でも母には感謝しかないですね。
母の献身的な保育のおかげで驚異的な成長を見せ、1歳になるころにはなんと大田区の健康優良児として表彰されるまでに成長することができたんです」

当時、楠野家が生活を営んでいたのは、6畳一間、共同トイレ、風呂無しという貧乏長屋。
父親は仕事で忙しくほとんど家にいなかったため、楠野は今で言うところの「ワンオペ」で育てられていました。

楠野 「『お父さんが働いてくれているんだから、贅沢はだめよ』というのが母の教えでした。
当然ながら洋服は長男が使ったものを次男が着て、そのお下がりを僕が着るといった感じでした。
でも実は、途中から僕のほうが次男よりも体格がよくなって、僕のお下がりを次男が着る、なんてこともありましたけどね(笑)」

楠野が小学生だった頃、父親である楠野幹夫はテスコム電機株式会社の前身となる東京電販の立ち上げ時期にあり、家庭を顧みず、まさに仕事に明け暮れる日々を送っていたのです。
友人が家族で旅行をしたりドライブに行ったりするのを見るとき、楠野は少しだけ羨ましい気持ちになることがありました。
しかし、そんな時に手を差し伸べてくれたのも、また近所の友人でした。

楠野 「友人家族がそんな僕を見て、ドライブや家族旅行にたびたび誘ってくれるんです。
友達の兄弟とキツキツになりながら、車の後部座席に座って行った旅行は、今でもとてもいい思い出です。
こうやって、いつもさりげなく助けてくれる友達とは、今も付き合いを続けていて、本当にありがたい存在だと感じています」

この幼少期の人との付き合い方が、今でも楠野の根幹に流れています。

 

自信を持てる製品は大切。でもそれ以上に大切なのは人との絆

▲大学在学中の楠野(右から4番目)。1980年代前半はスキーが大流行し、青春を謳歌した


楠野は大学卒業後、新神戸電機株式会社(現:日立化成株式会社)に8年在籍しました。
主力商品は鉛蓄電池、車用のバッテリーなどですが、とりわけゴルフカートのバッテリーで50%以上のシェアを誇っていた会社です。

楠野 「私の配属先は、樹脂営業部。回路基板の材料を加工メーカーにおろす仕事をしていました。
入社して約 2年、当時日本最大のエッジング加工メーカー A社(仮称)の担当に任命されました。
前任は課長という、期待値の高いクライアントでした。今考えても、よく若手の僕に任せてくれたな、と思います」


仕事を任された楠野がまず取り掛かったのは、A社の内情を把握すること。
すると、あることが分かってきたのです。
A社では、営業が仕入れの全権限を握っていました。
つまり、楠野の売り込むべき相手は、先方の営業担当者だったのです。
そして、A社は、日本有数のメーカーが出資してつくられた会社でした。
そのため、営業担当者はグループ会社から仕入れるように上司から指示されることがたびたびあり、それを面白くないと感じている営業担当者が少なからずいたのです。

楠野 「僕は、とにかく先方の営業の味方になろうと決めました。
営業担当者が出社する朝 7時と夜 8時に A社に行って、顔を売るという生活をはじめたんです。
最初こそあしらわれることがありましたが、相手も営業なので、熱心に通う僕のことをかわいがってくれるようになっていきました。
A社のクライアント工場に営業担当が行くと聞けばついていって、一緒になって材料の説明をすることも。
言葉巧みになんてできなかったから、思いを伝えて、人間関係をつくっていく、という地道な活動をしていましたね。
面白かったのは、自分が苦手だと思っている人ほど、粘り強く会いにいったら、最後にはほかの人に出さない情報すら渡してくれるまでになったことかな。
当時の僕には組織的な後ろ盾はなかったから、自分が動かないとダメだと気づいたことも大きかったかもしれないですね」


クレームを受け、冷たい体育館で数千枚、数万枚の基板チェックをひとりでおこなったり、夜中にたたき起こされてクライアントへの説明や対応を迫られたりと、辛いこともたくさんありました。
しかし、担当した直後は大きな売り上げ額ではなかった案件が、手を離れる頃には年間20億の取引にまで成長しました。
ここまで頑張ることができたのは、楠野にはいつも心のよりどころがあったからです。

楠野 「先輩の仕事が終わるまで、自分も仕事をする振りして待っていたことがよくありました。
『仕事、終わってるんじゃないのか?』と聞かれて、『はい!』と元気よく答えると、『俺のことを待ってたのか?しかたないなぁ、じゃ飲みにでもいくか!』とニコニコ受け入れてくれる先輩方がいて、本当に良くしてくださったんです。
知識もノウハウも、惜しみなく教示してくれました。自信のある製品を生み出すことは大切だけど、人との絆っていうのはそれ以上に大切だと感じましたね」


当時の新神戸電機株式会社には、年に一度、全社員を対象とした成果発表会がありました。そこで楠野は、なんと社長賞を受賞。
成果が認められたと感じた瞬間でした。
30歳までに役職も、といった話も現実味を帯び、順風満帆の出世街道を歩んでいた時でした。
当時のテスコム電機社長であり、父である楠野幹夫から、「うちの会社に来ないか」と打診を受けたのです。


「社員を路頭に迷わせるわけにはいかない」究極の現場で沸きあがった熱い想い

▲32歳、怒涛のピンチの直前


楠野 「本当はね、取引会社の家族経営の会社が揉めているのをたくさん見ていたから、自分は絶対に父の会社に行くのは嫌だと思っていました」
勤め先であった新神戸電機からは、「お前の父親に会って、説得することも辞さない」という言葉までもらいました。
しかし、「体調が悪い」と告げる父の顔色が土気色になっていくのを見るにつれて、次第に心が決まりました――「父を支えよう」と。

楠野 「それでも送別会の時には泣きましたね。入社するときに、絶対に父の会社には入らない、ここで成果を出す、と豪語したし、何より人に恵まれていましたから。
今までもあの時のことははっきり覚えています。


90年にテスコムに入社して、松本工場に初めて行った時に、社員の真面目さをすごく実感しましたね。同時にテコ入れの必要性も感じました。
『松本工場に長期滞在させて欲しい』と社長に頼み込んで、僕のテスコムでの人生がスタートしたんです」
“社長の息子”という見えない印籠が足かせになると思い、メンバーとは積極的にコミュニケーションをとるようにしました。
休み時間にキャッチボールをし、飲みに行って深夜まで熱く語りあいました。

ちょうどその頃、楠野にとって大きな試練が訪れました。入社から 2年、楠野が 31歳の時に起こったバブル崩壊です。

楠野 「 PL/ BSを見た時に『金額が間違ってるんじゃない?』と聞いてしまったんです(笑)。
あの頃、本当に限られた者しか知りませんでしたが、かなり厳しい状況でした。
バブルの崩壊で社長も明らかに落ち込んでしまって、ついには『お母さんを連れて海外へ逃げろ』とまで言いだして。
『社員が心配するし、絶対そんな姿見せちゃダメだよ。最後まで諦めないで頑張ろう。
とにかく、社員を路頭に迷わすわけには行かないよ!』と励ましながら、何とか光を見つけようとがむしゃらでした」


最大のピンチからの復活。今、思う「会社とは?」


大きなピンチは、立て続けに起こります。

楠野 「簡単に言うと、協力会社に裏切られてしまったんですよ。
ノウハウを丸ごと持っていかれて、別のブランドを立ち上げられてしまったんです。
会社にとっては、創設以来最大級のピンチでした。
でもこの時に、松本の工場の結束力が急速に高まったんです。
できるだけ早い期間で主力製品の金型をつくり、製造再開まで漕ぎ着けました。
驚くことに、数カ月で今までと同じように製品をつくれるようになったんです。
社員がみんな『やればできる!』という気持ちを持ちましたね。
また、ほとんどの取引先が『私たちが取引をしているのはテスコムだからね』と、競合になった会社を門前払いしてくれたそうなんです。
これには感動しましたし、身の引き締まる思いでした。
この一連の事件は、まさに『災い転じて福となす』そのものだったと、今は思います」


ようやく立て直しはじめたころ、父・楠野幹夫の糖尿病が悪化し、入院が決まりました。
これを機に、テスコム産業株式会社、テスコム電機株式会社に続き、1997年に株式会社テスコムの社長就任が決まりました。
楠野が36歳頃のことです。

楠野 「正直、中長期の戦略などはたてていられる場合ではなかったですね。
目の前の何かを変えなければいけなかった。
そこでまずは、会社の羅針盤である経営理念を刷新しようと考えたんです。
その時に決めた経営理念は今でも変わらずに、会社を支えてくれています」


この頃から、テスコムの快進撃がはじまりました。
製造工程を見直して利益率をUPさせ、1992年には、今でこそ一般的となった「イオン」を搭載したカールドライヤーの開発に他社に先駆けて成功。
OEM製品として美容院への販売からスタートしたイオンカールドライヤーでしたが、お客様のご要望を具現化した技術は瞬く間に口コミで広がり、1年足らずで売り上げ50万台を突破。
さらに生産体制を整え、社員数を大幅に増やしてニーズに応えることで、販売数は爆発的に伸び、今までの負債を一掃することができました。

様々な苦難を乗り越えて、今、楠野が思う“会社”とは何なのでしょうか。

楠野 「あの苦い経験をしてから、とにかくいつも、この会社をつぶしちゃいけない、と思っています。
会社っていうのは生きものだし、いつも変化するものだから難しいんですけどね。
正直に言うと、会社が成長する度に、『父に喜んでもらいたい』という気持ちも少しはありましたよ。
この会社を立ち上げた父、そしてテスコム製品を愛してくださるお客様あってのわれわれであることは間違いありません。
けれど、それよりずっと前に、“社員のみんな”があってのテスコムです。
だから、これからも『みんなと共に会社はある』と肝に銘じて進んでいきます」


人とのつながりを何より大切にしてきた楠野。友達、先輩、社員、自分を取り巻く人々への感謝を胸に、これからも進んでいきます。

 

 

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